ペルシア帝国の都ペルセポ

 リス、かつての世界の半分、   イスファハン

 北と西には4,000メートル

 の山々が連なり、

 東部に広大な砂漠が広がる

四季の美しい風景の中で、ペルシア文化、独自のイ

スラム文化を育んで来た~

出かけよう!イスラムの

教えのもと心温かき人々

が平和に暮らすイランへ



イラン革命と・・・その後


イラン革命と ・・・  その後

イラン革命後のイランでは、イスラム法の施行によるイスラム社会を目指すことにより、欧米の文化はことごとく排除された。 アメリカは「悪魔」とされ、ネクタイ姿も西欧の象徴とみなされ排除されてしまった。 その後イスラム共和党の単独体制の元、その内部で統制経済を求める若手のウラマー(イスラム聖職者)達と自由経済を求める商人や高位のウラマー達との間で、小競り合いがはじまってしまう。 しかし、ホメイニ師はそのどちらにも付かず、均衡の姿勢をとる。 そのためしだいにイスラム共和党事態の存在意義がなくなってしまい、1987年に休党宣言を出すに至る。

イラン・イラク戦争・・・・ と、

1980年9月。イラクが国境を侵し、イラン国内に進軍しイラン・イラク戦争が始まった。 当時はまだイスラム共和党の政治的体制もかたまっておらず、アメリカ大使館の占拠事件から欧米がイランに経済制裁を加えている最中で、そんな矢先にイラクに国境領域を占領されてしまった。 イスラム共和党はその国内での支配体制を固めると、本格的な反撃に移り、主な領土を奪回し、1982年にはイラクに向けての進攻を開始した。 しかし、国内での守りを固めたイラクの前でイランはそれほどの戦果も、結局上げられなかった。 イランの外貨収入の9割は石油収入である。 しかし、石油の産出量は、革命後は以前の四分の一に減少してしまった。 石油価格が上昇したため、何とか乗り切れたもののイランの国内総生産もこの石油収入に大きく左右された。 革命時マイナス成長となった国内総生産は、石油収入が回復した1982年?83年には、10%の成長があった。 しかし、1986年には再びマイナス10%台に落ちてしまった。 平均すれば、革命後の国内総生産の成長率はマイナス0.7%というこになってしまった。 金融の面では、イスラム銀行制度が導入されたが、イラン・イラク戦争とも重なりイランの経済は急速に悪化してしまった。

ホメイニ師

1988年、悪化するイランの経済情勢のもとホメイニ師は、それまでイスラム法が政府の政令に優先するとしていたが、政府の政令がイスラム法に優先するという見解を示した。 そして次に、1988年夏、イラクとの停戦を決断した。 イランがイラクに占領された領土を奪回した時点で、「なぜ戦争を終結しないのか。」 という批判もホメイニ師は国内で受けていた。 しかし当初ホメイニ師は、「イスラム信徒と不信心国家イラクとの戦いであって、単に領土の問題だけではない。」 と述べていた。 欧米の国々が持つ「領土」という概念の上にイスラム的概・価値感を備えての戦いであった。 しかし、国内の経済状況の悪化を食い止めるためにホメイニ師は、自分の見解を曲たのである。 ホメイニ師にとっては苦渋の決断であったであろう。 しかし、その後も彼の努力は続けられた。 1988年9月、ホメイニ師は楽器とチェスを解禁した。 宗教的道徳に反しないことという条件つきではあったが、彼はイスラムの思考を現代社会にもうまく適合させようと努力をした。 しかし、こうしたホメイニ師の政策に不満を抱くイスラム法学者もいた。 もはやホメイニ師には何の期待もなく、時期最高指導者であるモンタゼリー師に早くも期待をつなぐ輩も出てくるようになってしまった。 しかし、モンタゼリー師は半年後に辞任に追い込まれてしまう。 しかし、モンタゼリー師の解任は、ホメイニ師にとっても先の決断と同様に苦渋の思いでの決断であったという。 モンタゼリー師辞任後の1989年6月、ホメイニ師は84歳の生涯を閉じた。ホメイニ師の後を継ぐ最高指導者の席は空席のままであった。 

後継者

最高指導者は、イスラム法学者の最高権威者でなければならないと、憲法で定められている。 しかし、ホメイニ師以外の宗教的権威者は、ホメイニ師の弟子であったモンタゼリー師以外はホメイニ師の体制を必ずしも認めていなかったので、彼らを後継者とするわけにはいかなかった。 そこでホメイニ師が亡くなった後、憲法の見直しと改定がなされ、宗教的階級は下位ではあるが、ハーメネイー師が最高指導者に選ばれた。 1989年夏、ハーメネイー師が最高指導者になるとともに、ラフサンジャー二ー師が大統領に選出された。 彼は、自由経済政策をとり、外貨の導入を求める政策を打ち出した。その結果、始めの4年間は国内総生産8.1%の伸び率で一応の成功を収めた。  しかし、原油生産量は増えたが、問題はこれを上回る輸入の増加であった。 その結果230億ドルの赤字を抱えることになり、輸入抑制策に切り替えた。これが結果としてイラン経済を圧迫することになってしまった。 政府は、経済再建に乗り出すがうまくいかず、1990年代初頭には、各都市で経済不安から暴動まで起こってしまった。 1993年、ラフサンジャー二ー師は第二期目の大統領に就任し、自由経済賛成派と手を組み再び経済の建て直しをはかる。 これにより状況はやや上向き加減に変わる。 1997年時点での国民一人当たりの国内総生産は、1780ドルで、エジプトより700ドル高く、トルコの6割であったという。 ホメイニ師時代には、統制経済賛成派と自由経済賛成派が対立し、ホメイニ師自身は中立的立場をとっていた。 しかし、ラフサンジャー二ー師は自由経済賛成派と手を組んだため、1997年の大統領選挙では自由経済賛成派の勢力に反発する人々が、ハタミ師を推した。 ハタミ師は、革命を知らない若い世代と女性の支持を得て大統領に選ばれた。・・・・・・・  

そして、その後は、、、