ペルシア帝国の都ペルセポ

 リス、かつての世界の半分、   イスファハン

 北と西には4,000メートル

 の山々が連なり、

 東部に広大な砂漠が広がる

四季の美しい風景の中で、ペルシア文化、独自のイ

スラム文化を育んで来た~

出かけよう!イスラムの

教えのもと心温かき人々

が平和に暮らすイランへ



イランの歴史


アケメネス朝以前(エラム人とメディア人)

紀元前3,000年の頃、メソポタミア文明が起こる。そのメソポタミアの東の山地を越えると海抜500m・・・1,000mの高原地帯に入る。そこは乾燥した遊牧の地域でイラン高原への印欧語移住民の侵入路となっていた。紀元前のイラン高原には農耕、牧畜、狩猟などのさまざまな生活形態が未成熟のままの原始的な村落が点在していたと考えられている。そんな先史以前のイラン南西部、スサを中心にエラム人による国家形成が始まった。 彼らは、メソポタミアとイラン高原との間の交易を仲介する立場にあり楔形文字を借用し、錫、原鉱石などを持ち込んだ。エラム人は、メソポタミア侵入を繰り返しながら紀元前13世紀の頃最も繁栄するが、アッシリアがバビロンを征服した時、それと運命を共にする。 エラム人が興亡を繰り広げていた一方で、イラン高原北部カスピ海西岸と東岸の地域では、印欧語族のアーリア人が次第に支配的な立場になってきていた。 アーリア人は、トルコ東部やユーフラテス川上流域にも入ったが、別の集団がイラン高原を目指し、北西部と北東部の両方から南下した。その中の一つの部族メディア人は、多数の家畜を連れて遊牧生活を送っていたが、紀元前8世紀の頃、エクバダナ(現在のハマダーン)に王城を構え、メディア王国を建てた。メディアの文化は、アッシリアの強い影響下にあり、独自の文化の発展はほとんど見られなかった。 メディア王国は、三代目のキュアクサレスの治世の時に最も強大になった。彼は、ネブカドネザルに娘アミュティスを嫁がせ、インドから小アジアまでの広大な交易路を確保したように見えたが、征服は不完全であり統治組織も整っていなかった。 またキュアクサレスの次のアスティアゲスは、暴君であり次第に庶民の人気を失い、紀元前550年にキュロスによって滅ぼされてしまった。 その後、全オリエントに安定した支配体制を敷くアケメネス朝ペルシャが登場してくる。

ペルシア帝国(アケメネス朝ペルシアとぺルセポリスの建設)

このアーリア人の部族は、パルサ地方(現在のファールス州)に定着したのでペルシアと呼ばれるようになった。紀元前7世紀の中頃には、すでにエラム人に圧力を加えていた。キュロスは、メディア王アステュアゲスの娘と結婚したが、彼の父カンビセス1世は、アステュアゲスの別の娘と結婚して彼を生んだのでキュロスの母と妻は姉妹であった。 キュロスは、イラン高原からアナトリア、ガンダーラからぺシャワールまで征服してゆく。次のカンビセス2世は、エジプトまで征服を推し進めたが、エジプトからの帰還途中落馬事故で亡くなってしまう。やがて登場するのが、キュロス一族とは傍系の家系出身であった、ダリウス1世。彼は、キュロス家の影響力を一掃して紀元前522年にアケメネス朝を確立した。 権力の座に付くとダリウス1世は諸国の反乱を力で鎮圧し、中央集権化に乗り出した。 公用語をアラム語とし、多民族を支配する帝国ではあったが、その文化、宗教には寛容であった。ペルセポリスを建設し、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる隠密を配備し、オリエントの中央集権体制を確立した。ダリウス1世の後の王はあまり有能ではなかったが、彼の確立した統治体制のお陰により、アケメネス朝ペルシアは、200年以上続く。 

アレキサンダー大王の登場(セレウコス朝)

アレキサンダー大王が20歳で即位した頃のマケドニアは低開発国で、南方ギリシアの都市国家郡は、長期に渡る戦乱で衰退していた。 その頃までにギリシア人は、ペルシア軍に傭兵として、あるいは商人、職人としてペルシア帝国の中心に進出しており、ペルシア人 とギリシャ人は相互によく知り合っていた。 当時のマケドニアの宮廷にとってペルシアの富は羨望の的であった。 そんな中、アレキサンダー大王は、ダーダネルス海峡を渡った。彼はエジプト、北アラビア、そしてついにはペルシア帝国を滅ぼした。 ペルセポリスを破壊し、ペルシア帝国の行政と宮廷の組織を受け継いだ。アレキサンダー大王は、紀元前323年にバビロンで33歳で亡くなるが、彼はその後その大帝国をどのように統治してゆくつもりだったのだろう?! 彼の打ち立てた大帝国により東西文化が融合し、ヘレニズムの時代が訪れる。 彼の死後、将軍達は広大な帝国を分割することも、解体する事も認めず、互いに大王の後継者を主張し、実力による王座争いを展開した。紀元前306年頃、イランの地ではバビロニアのセレウコスが王を称した。セレウコス朝は、当初アナトリアまでを支配したが、次第にその領土は縮小し、紀元前64年にローマの将軍ポンペイウスによって滅ばされた。

パルティア(アルサケス朝)

セレウコス朝期、すでにカスピ海南東部では、パルティア人が独立を果たし、その指導的部族アルサケス朝の支配下に征服を推し進めていた。ミトリダテス1世の時にイラン高原とメソポタミアを支配下に収め、クテシフォンの王宮を建設した。 パルティア人は、アケメネ朝の統治組織を継承し、中央集権体制を確立しようと努力した。また、インド洋を利用する海路と中央アジアの隊商路によって、ローマと中国の交易の仲介をした。しかしながら後に勢力をオリエントに広げてきたローマと死闘を繰り返すことなる。 パルティアの支配者達は、最後まで国内の地方勢力を完全には押えることはできなかった。やがてアケメネス朝の故郷、パルサから起こったササーン朝のアルダシール?世によって226年に滅ぼされてしまう。

ササーン朝ペルシア(ササーン朝)

アルダシール?世の息子・シャープール1世は、アケメネス朝を回復し、当方は、インダス川流域に軍を進め、北方サマルカンドを平定し、西方アンティオキアを占領。ついには、ローマ皇帝をも捕虜とした。 ササーン朝は、パルサ地方を拠点とし、ゾロアスター教を国教とし、中央集権化に勤めた。6世紀頃、ホスロー1世の時最盛期を

 迎える。 ササーン朝の王達は、税制や軍制の改革、官僚育成のための教育管理、交通網や灌漑設備の完備などの改革を進めた。 ホスロー?世の死後、一時分裂状態になるが、ホスロー1世の時代に最大領土となる。小アジア、パレスチナ、エジプト、アラビアなどをも占領した。 しかし、彼は暴君であり、ティグリス川の大氾濫、軍備調達の為の重税などにより、次第に国内情勢が不穏な状況へと流れていってしまった。 こうした状況の中、アラビア半島から、アラブ人の移住が盛んになってくる。 そしてこの約400年間続いたササーン朝ペルシアは、やがてアラブ人によって滅ぼされることになる。

アラブの侵入(イスラム)の侵入

7世紀の初頭、アラビア半島のメッカでムハンマドによりイスラム教という新しい宗教が興った。ムハンマドの死後アラブ人達(イスラム)は、アラビア半島から外へ大征服に乗り出した。当時の中東の2大勢力であったビザンチン帝国とササーン朝ペルシアは、その新興勢力にあっけなく滅ばされることになる。651年、ヤズデギルド3世の時であった。 その後、アラブ人による支配が始まり、イランは次第にイスラム化して行くこととなる。しかしながら砂漠の遊牧民であったアラブ人には、高度に発達していたペルシア帝国の支配権をそのまま受け継ぐことが出来ず、行政などにおいてはその事務処理などのあらゆる面でイラン系の人々が担当していた。

アラブ(イスラム)の侵入以降

アラブ(イスラム)の進入によりペルシア文化は次第にイスラムに吸収されていくが、イスラム帝国がウマイヤ朝、アッバース朝と移り変わるにつれて、イラン人のイスラム帝国内での立場も次第に変化していく。9世紀中頃になるとイラン東部にはイラン人による地方政権が立てられるなど、バグダードのイスラム帝国(カリフ)を支持しながらも実質的にはイラン人の王朝が再び興亡するようになる。中でも9世紀後半にブハラ(現ウズベキスタン)を首都として興ったサーマーン朝の時代には。アラブの進入以来2世紀にわたってストップしていたペルシア語による文学作品、他の発表も再開された。(イブン・アリー、フェルドウスィー等が活動をはじめたのもこの頃である。)イスラムを受け入れた新しいスタイルのイラン文化の開花が次第に進められていくようになる。

トルコ系、モンゴル系の支配者

 (セルジューク朝、イル・ハーン朝、チムール朝)

モンゴル高原に居住していたトルコ系の諸部族は次第に西へと移動し、9世紀の頃はイスラム帝国内の奴隷として、11世紀になると部族単位でイスラム帝国の中心へと徐々に進入してきた。やがて彼らは奴隷から軍人へと成長し、現アフガニスタンにカズナ朝をうち立てた。そのカズナ朝をやぶったのが、中央アジアからイラン、現在のシリアにまたがる広い地域を治めたセルージューク朝である。トルコ系の諸民族の進入はアラブの進入とは異なり徐々にゆっくりと進められたので、先住民の文化を穏やかに吸収し共存していった。そして、11世紀の頃には、イスラム世界の中心的な大帝国(王朝)となる。現在のイランには、トルコ系の言語を話す人々が暮らしています。

トルコ系のの人々の次に台頭してきたのがモンゴル系の部族である。モンゴルの進入は各地を徹底的に破壊する征服的な進入で、最初に姿を現したのは8世紀の中頃でした。しかしその後、モンゴルも安定した支配と統治を求め、13世紀の中頃にイランにイル・ハーン朝を立てる。この頃のモンゴルはイスラムの文化を受け入れ共存するようになる。やがてイル・ハーン朝が衰退すると、14世紀のはじめになると第二のモンゴル系部族の侵入がはじまる。これによりイランは、やがてサマルカンドを首都としたチムール朝の版図に組み込まれていく。しかしこの時代には、イラン・イスラム文化の美しい建造物が建てられた。チムール朝が衰退すると15世紀にが西イランで遊牧民が建てた王朝が興亡するがいずれも長くは続かず、軍事的混乱期(戦国時代)となる。

イスラム(シーア派)を国教としたサファビー朝

16世紀初頭、混乱していたイランを統一したのが、サファビー朝である。スーフィー教団だったサファビー教団は次第に政治に関与するようになり、シャー・エスマイール1世の時代にイラン全土を統一し、シーア派12イマーム派を国教とした。最盛期は、シャー・アッバース1世の時代で、首都はイスファハン。現在のイラン人とイランの国の宗教的基礎がここから始まる。サファビー朝は18世紀のはじめに進入して来たアフガン人により滅ぼされ再び混乱期へと入る。

イランを再統一したガジャール朝

混乱を収めようとナーデル・シャーが一時イランを統一し、インドのムガール帝国へも攻め込むが、暗殺されイランの混乱期は尚も続く。18世紀末、ようやくイランを再統一したのがガジャール朝。しかし、この時代は、西欧諸国、ロシアとの戦いの時代でもあった。ロシアに対しては戦争で領土を失い、イランは英・露に対して半植民地的な立場となってしまう。時の宰相アミール・キビールらが改革運動を進めるがうまくいかず、宮廷内の勢力争いも多発。そんな中で、1848年から52年間の長きにわたって統治したナーセロッディーン・シャーの時代は古き良き時代と語られることも多い。

20世紀のイラン =イラン革命まで

20世紀に入ると立憲革命(1905年・・・1911年)を経て、ガジャール朝は倒れる。1925年、レザー・シャーが即位しイラン最後の王朝・パフラビー朝が成立。これにより西洋化、近代化が急速に推し進められる。そして1970年代のイランは、オイルマネーに沸く。しかし、富の分配の矛盾、農村の荒廃、人々の経済格差など社会的に様々な矛盾を生み人々の不満がつのり、1979年、指導者ホメイニ師によるイラン革命が勃発。これにより、パフラビー朝は滅び、イスラム勢力が完全にイラン国内で主導権を握るようになる。強い反米政策と独自のイスラム政体を築いた現在のイラン・イスラム共和国の誕生である。